エールでは、裕一が国際作曲コンクールに交響曲『竹取物語』で応募して、みごと入賞を果たしました。
古山裕一のモデルは、作曲家の古関裕而さんで、国際作曲コンクールで二位入賞したとされていますが、これに意を唱える意見があります。
こちらでは古関裕而さんが実は国際作曲コンクールで二位入賞していないのではないかについて詳しく追求していきます。
結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第18話『国際作曲コンクールの結果』のあらすじ
こちらは、エール第18話『国際作曲コンクールの結果』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
裕一が、国際作曲コンクールに応募したのは、鉄男が持ってきた雑誌がきっかけでした。
雑誌には、英国音楽雑誌『エスター』主催の国際作曲投稿募集のページがあり、それを見つけた鉄男が、裕一に挑戦するよう持ってきたのです。
最初は作曲することを拒否した裕一でしたが、行員仲間の励ましもあり、国際作曲コンクールに挑戦することに。
しかし、長いブランクでなかなか曲が浮かびません。
そんな裕一を見た川俣銀行の仲間たちは、会議を開いて協力しますが、ここでもいいアイデアがまとまりませんでした。
そんなとき、昌子が今日は十五夜と話すと、みんなで満月を見に外にでます。
鉄男が何気なく竹取物語の歌を口にすると、裕一がそこから閃き竹取物語を題材にした交響曲を考えつくのです。
そして、1ヵ月後に完成して、国際作曲コンクールに交響曲『竹取物語』で応募しました。
結果、国際作曲コンクール二位で入賞を果たします。
古関裕而さんは落選していた!?
さて、裕一が国際作曲コンクールに交響曲『竹取物語』で応募して、みごと入賞を果たしますが、古関裕而さんの入賞に否定的な話とは、どういうものか検証していきます。
古関裕而さんの国際作曲コンクール二位入賞について、経緯を詳細に追い求めた本の代表格が「古関裕而1929/30かぐや姫はどこへ行った」です。
残念ながら、本を入手することができませんでしたが、以下の2つの書籍で、「古関裕而1929/30かぐや姫はどこへ行った」を引用した解説がありました。
古関裕而さんが国際作曲コンクール二位入賞するまでの経緯
古関裕而さんが、国際作曲コンクールで二位入賞したと肯定的に記述している書籍では、以下のように経緯がまとめられています。
- 商業高校時代から作曲していた交響曲『竹取物語』が完成
- 音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』で作曲コンクールの募集広告を見て応募
- 国際作曲コンクール二位入賞の知らせが届く
- 丹治嘉市先生に手紙を送る
- 地元紙「福島民報」「福島民友」に二位入賞の快挙が報じられる
地元紙が情報を入手した経緯は明らかになっていませんが、古関裕而さんが丹治嘉市先生に手紙を送った内容が漏れたのではないかと言われています。
それでは、次に入賞していないのではないかという否定的な意見についてみていきます。
応募したのは、国際作曲コンクールじゃなかった!?
まず、そもそも応募したのは国際作曲コンクールではなかったという内容です。
古関裕而さんが見つけたコンクールの応募広告は、正しくは「国際現代音楽際」というものです。
これは、国際現代音楽教会が主催する音楽祭で、英国音楽教会がその応募の窓口になっていました。
応募したのがコンクールでなかったとして、なぜ古関裕而さんは二位入賞と丹治嘉市先生に手紙を送ったのでしょうか?
英語の訳を間違えた!?
なぜ二位入賞と手紙に書いたのかそのポイントとなる言葉が「second choice」です。
この「second choice」を「二等賞」という意味に取り違えてそのように手紙に書いたのではないかと推測されています。
さらに「second choice」は、「入賞を逃したが優秀な作品だった」という意味だったのではということです。
つまり、二位入賞はしておらず、残念ながら落選したがいい作品だったという慰めの言葉ということです。
さらに、古関裕而さんは当時新聞記者の取材で「当選なんかしません。」と答えています。
この発言はいくつかの書籍でも記述されています。
もしかしたら、後で「second choice」の意味を知ってびっくりしたのかもしれません。
古関裕而さんの手紙の内容はウソだった!?
「second choice」の意味を間違えたとしても、手紙には賞金を受け取ったこと、留学のこと、レコードに吹き込みされることが書かれていました。
古関裕而さんの手紙の内容はウソということでしょうか?
これについては、「古関裕而1929/30かぐや姫はどこへ行った」では肯定的に推理されています。
それは、入賞していないのに英国音楽教会が手紙を送った理由は、審査した結果素晴らしい作品だったので、賞金やいくつかの得点を与えるためと記述されています。
古関裕而さんの手紙にも「明年二月末渡英致します。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、400ポンドの金が送金されて来ました。今は、私はいくばかりです。」と書かれていました。
二位入賞は勘違いにしても、英国音楽教会から手紙が届き送金されたことから留学の話も事実だったのではないかと考えられます。
自叙伝で一切語っていない!?
二位入賞に疑問が持たれた大きな原因は以下の2つです。
- 留学していない
- 自叙伝で一切語られていない
留学していない
古関裕而さんは、留学の機会が与えられたにもかかわらず留学していません。
その理由として、賞金をもらったものの留学するほどのお金がなかったとか、英国音楽教会から留学取り消しされたことなどが挙げられています。
留学取り消しに関しては、1929年10月に起こった世界恐慌の影響で英国音楽教会も受け入れる余裕がなくなったというものです。
自叙伝で一切語られていない
古関裕而さんの代表的な自叙伝はこちらの「鐘よ鳴り響け」です。
こちらでは、国際作曲コンクールについて、一切語られていません。
そのため、本当に応募したのか?本当に入賞したのか?と疑念を持つ人が出てきたというわけです。
二位入賞否定派の主張
ここまでの話をおさらいして、二位入賞否定派の主張をまとめると以下のとおりです。
- 1929年5月なかばに、古関裕而さんが国際作曲コンクールの募集広告を見つけるが、実は国際現代音楽協会が主催する音楽祭だった
- 交響曲『竹取物語』を含む自作5点を英国音楽協会に送った
- 音楽祭はすでに終わっていたが、優秀な作品だったので、賞金やその他特典を付けると手紙を送った
- 手紙に「second choice」と書かれており、二位入賞と勘違いする
- 丹治嘉市先生に「二位入賞」「賞金」「留学」の報告を手紙で送る
- 世界恐慌で英国音楽協会に受け入れる余裕がなく留学取り消しとなる
国際作曲コンクール二位入賞の否定的意見まとめ
ここまで、国際作曲コンクール二位入賞について、詳しく解説しました。
二位入賞したのが実話でなくとも、偉大な功績を残した方ということには間違いありません。
今回の内容をまとめると、以下の通りです。
- 二位入賞に疑問が持たれた大きな原因は、留学していないことと自叙伝で一切語られていないこと
- 古関裕而さんが応募したのは、国際作曲コンクールではなく、「国際現代音楽際」の可能性あり
- 国際作曲コンクール二位入賞の話は、「second choice」の意味を間違えた可能性あり
- 古関裕而さんの手紙の内容は、英国音楽教会から手紙が届いたことから事実の可能性あり
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