エールでは、裕一が福島ハーモニカ倶楽部をやめて高校卒業後に、伯父の権藤茂兵衛が経営する川俣銀行に就職しました。
裕一が福島ハーモニカ倶楽部を辞めて川俣銀行に就職した話は、実話でしょうか?
結論からいうと、古山裕一のモデルである古関裕而さんは高校卒業後に正式に福島ハーモニカ倶楽部のモデル「福島ハーモニカ・ソサエティ」に入会しているので、エールの話は実話ではありません。
しかも、銀行に就職してからもずっと活動していました。
こちらでは実話を詳しく解説していますが、エールと実話の結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第13話『三郎からの人生に関わる告白』のあらすじ
こちらは、エール第13話『三郎からの人生に関わる告白』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
三郎が経営する呉服屋『喜多一』は、京都の商品を福島の呉服店や百貨店に卸す問屋をしていました。
そんな喜多一を訪ねてきたのは、吉野という男で、「もうちょっと、商売を広げる気はないですか?」と話を持ちかけてきました。
その儲け話というのは、京都の呉服を一手に引き受けるという話で、三郎は喜んで連帯保証人のハンコを押します。
すると、数日後、吉野がとんずらしたという話を聞き、三郎は多額の借金を背負うことになりました。
このままでは、喜多一が潰れてしまうので、融資を受けるため、義兄の権藤茂兵衛にお願いしますが、融資をする条件が、二人の子供のどちらかを権藤家の養子にすることでした。
そして、三郎は裕一にその話をします。
納得がいかなかった裕一でしたが、それが家族のためだと我慢し、音楽の道を諦め、権藤家の養子になることにしたのです。
そして、最後の公演会に挑みます。
公演終了後、裕一は福島ハーモニカ倶楽部を辞めることを部員の皆に伝え、謝りました。
公演が終わったあとは、淡々と学校生活を送り、卒業後に、川俣銀行に就職しました。
エールと実話の比較
さて、裕一が福島ハーモニカ倶楽部をやめて高校卒業後に、伯父の権藤茂兵衛が経営する川俣銀行に就職しましたが、古関裕而さんの実話では、実際どうだったのか比較していきます。
実話の出所は、以下の書籍です。
福島ハーモニカ倶楽部をやめた話は実話か?
エールでは、福島ハーモニカ倶楽部をやめて高校を卒業しましたが、これは実話ではありません。
福島ハーモニカ倶楽部のモデルは、「福島ハーモニカ・ソサエティ」という音楽同好会です。
裕一のモデルである古関裕而さんは、高校卒業後、川俣銀行で勤めているときも「福島ハーモニカ・ソサエティ」で活動を続けています。
よって、養子にいくために福島ハーモニカ倶楽部を辞めた話は実話ではありません。
福島ハーモニカ・ソサエティにいつ入会した?
古関裕而さんは、福島ハーモニカ・ソサエティに高校二年生のときに参加しています。
ただし、正式に入会したのは、旧制福島商業学校卒業後のことです。
古関裕而さんが、旧制福島商業学校を卒業したのが、1928年3月ですので、そのときに入会したことになります。
よって、古関裕而さんが福島ハーモニカ・ソサエティに正式入会したのは1928年です。
川俣銀行時代も福島ハーモニカ・ソサエティに参加していた?
古関裕而さんは、川俣銀行に就職しても福島ハーモニカ・ソサエティに参加していました。
もっとも、福島ハーモニカ・ソサエティに参加していたのは、川俣銀行に就職する前です。
権藤茂兵衛のモデルで、裕而さんの伯父である武藤茂平さんが、就職せずに音楽活動ばかりしている裕而さんを心配して自ら経営する川俣銀行に口利きをして、就職することになりました。
福島ハーモニカ・ソサエティーの定期公演では、裕而さんは作曲や指揮にとその才能を遺憾なく発揮していました。
よって、川俣銀行時代も福島ハーモニカ・ソサエティに参加した話は、実話です。
エールの裕一が川俣銀行に就職した話と実話の比較まとめ
ここまで、エールの内容と実話を比較して説明しました。
福島ハーモニカ倶楽部も辞めていないし、ずっと活動していましたね。
今回のエールと実話の比較をまとめると、以下の通りです。
- 福島ハーモニカ倶楽部をやめた話は、実話ではなく、辞めていません
- 福島ハーモニカ・ソサエティに正式入会した時期は、商業高校卒業した1928年(昭和3年)
- 川俣銀行時代も福島ハーモニカ・ソサエティに参加していた話は、実話!音楽活動ばかりしているのを心配して川俣銀行に口利き
エールと実話比較まとめ記事
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