エールでは、裕一が老舗呉服屋『喜多一』の跡取り息子として生まれました。
裕一が老舗呉服屋に生まれた話は、実話でしょうか?
結論からいうと、古山裕一のモデルである古関裕而さんの実家は呉服屋『喜多三』で、エールの話は実話です。
ただし、今は現存していません。
こちらでは実話を詳しく解説していますが、エールと実話の結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第2話『古山裕一誕生!』のあらすじ
こちらは、エール第2話『古山裕一誕生!』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
明治42年の夏。
福島にある老舗呉服屋「喜多一(きたいち)」の店主・三郎と妻・まさに、待望の跡取り息子・古山裕一が誕生しました。
三郎と妻のまさは、長い間子供に恵まれず、諦めかけてたいたところに、裕一が誕生したのです。
うれしそうに生まれたばかりの子供に話しかけます。
裕一の父・古山三郎は、老舗呉服屋「喜多一」の4代目です。
3人兄弟の末っ子でしたが、兄2人を相次いで亡くしており、継ぐ予定のなかった三郎が、4代目として呉服屋「喜多一」を継ぐことになったのでした。
エールと実話の比較
さて、裕一が老舗呉服屋『喜多一』の跡取り息子として生まれましたが、古関裕而さんの実話では、実際どうだったのか比較していきます。
実話の出所は、以下の書籍やブログです。
裕一の実家が老舗呉服屋だった話は実話?
裕一は、 老舗呉服屋『喜多一』の四代目・古山三郎と妻・まさの間に生まれましたが、これは実話です。
朝ドラ「エール」の主人公・古山裕一のモデルは、作曲家の古関裕而さんです。
古関裕而さんの実家は、喜多一(きたいち)のモデルでもある『喜多三(きたさん)』で、1909年(明治42年)8月11日に福島市大町で誕生しています。
エールでは、従業員が3人しか登場しませんが、当時の『喜多三』には番頭や小僧が十数名いて、一本裏にある道まで敷地があった大きな呉服店でした。
三郎が四代目当主の話は実話?
三郎は、『喜多一』の四代目として紹介されていましたが、これは実話ではありません。
古山三郎のモデルは、古関裕而さんの父・古関三郎次さんです。
古関家は、代々当主が三郎次を襲名しており、古関裕而さんの父は、七代目三郎次を襲名していました。
しかし、古関裕而さんの父・七代目三郎次は、古関家の八代目当主です。
他のサイトでは、七代目あるいは八代目と紹介されていますが、正しくは三郎次を襲名したのが七代目で、古関家の当主としては八代目当主ということになります。
なぜ代が違うのかについては、関内家の代々当主の中に女性の当主がおり、途中に三郎次を襲名しなかったためです。
そのため、一代ずれたことになります。
こちらについては、古関裕而さんの息子・古関正裕さんのブログに書かれていましたので、間違いありません。
喜多三はまだ続いているのか?
古関裕而さんの実家である呉服屋『喜多三』は、残念ながらすでに倒産して今は建物も残っていません。
呉服屋『喜多三』の倒産については、「【エール実話】喜多一がついに倒産!実は音に出会う前から倒産していた!?」で詳しくまとめています。
古関裕而さんの生家である喜多三は、すでに建物もなくなっており、SMBC日興証券福島支店の前に「古関裕而生誕の地記念碑」が建てられています。
もともと、市内有数の老舗呉服屋で、大きな屋敷の裏には、裏の道まで庭が続いている広い敷地だったらしく、福島支店の建物がすっぽり入るぐらい大きかったのかもしれません。
エールの喜多一が倒産した話と実話の比較まとめ
ここまで、エールの内容と実話を比較して説明しました。
実家が老舗呉服屋だったことは実話でしたが、すでに倒産して建物も解体されていましたね。
今回のエールと実話の比較をまとめると、以下の通りです。
- 裕一の実家が老舗呉服屋だった話は、本当!
- 呉服屋『喜多一』のモデルは、古関裕而さんの生家である呉服屋『喜多三』
- 三郎が四代目当主の話は、四代目ではなく、八代目当主(三郎次は七代目で襲名)
- 喜多三はまだ続いているのかは、すでに倒産していて、建物も現存していない
エールと実話比較まとめ記事
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