エールでは、昭和2年の恐慌で仕事も減り、銀行で暇を持てあます日々を送っていました。
裕一が銀行で暇を持てあます日々を送っていた話は実話でしょうか?
結論からいうと、古山裕一のモデルである古関裕而さんは、川俣銀行に就職し、暇なときは作曲をしていたので、事実です。
しかも、それを山田耕作さんに送っていました。
こちらでは実話を詳しく解説していますが、エールと実話の結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第14話『踊り子志津との出会い』のあらすじ
こちらは、エール第14話『踊り子志津との出会い』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
昭和三年十月某日。
福島商業高校を卒業した裕一は、茂兵衛が経営する銀行に住み込みで働いていました。
裕一の叔父が川俣銀行の頭取であることは誰もが知るところで、将来は受け継いで川俣銀行の頭取になるかもしれないと裕一は町の噂になっているほどに。
そんな裕一が、職場の川俣銀行につきます。
銀行で働くというと、忙しいというイメージですが、このごろの地方銀行は、昭和2年の恐慌で仕事も減り、暇を持てあます日々。
行員もたったの5人で、裏から聞こえてくる 機織り機の規則正しい音でついつい眠気を誘われ、うとうとする裕一。
それを見た落合吾郎は、裕一に瀬川商店に小切手帳持っていくように頼みます。
すると菊池昌子が「ついでに 三角屋のおまんじゅうもお願い。」と頼みました。
エールと実話の比較
さて、裕一が銀行で暇を持てあます日々を送っていましたが、古関裕而さんの実話では、実際どうだったのか比較していきます。
実話の出所は、以下の書籍です。
銀行で暇を持てあましていた話は実話か?
エールでは、昭和2年の恐慌で仕事も減り、銀行で暇を持てあます日々を送っていましたが、これは実話です。
古関裕而さんは、伯父の武藤茂平が経営する川俣銀行に就職しました。
エールでは養子縁組が理由とされていましたが、実話ではブラブラしていたからです。
こちらについては、「【エール実話】裕一が川俣銀行に就職!実はぶらぶらしていたから就職した!?」で詳しくまとめています。
古関裕而さんは銀行の中で一番末席で、川俣町で週に一回市が開かれる日だけで、行内がごった返しますが、それ以外の日はいたって平穏でした。
よって、銀行で暇を持てあましていた話は実話です。
暇なときは作曲をしていた話は実話か?
古関裕而さんが、暇な銀行で作曲をしていた話は、実話です。
暇な銀行では、帳簿の間に五線紙をはさんで作曲ばかりましていました。
暇で安定はしていましたが、古関裕而さんは作曲に励み、音楽ノートに作品を作り続けていました。
よって、暇な銀行で作曲をしていた話は実話です。
山田耕作に曲を送っていた話は実話か?
古関裕而さんが、川俣銀行時代に山田耕作さんに曲を送っていた話は、実話です。
古関裕而さんは、コツコツ作り溜めた曲の中から数点選んで、山田耕作さんの事務所宛に手紙とともに送っています。
そして、山田耕作さんは、「がんばりなさい」と添え書きした手紙とともに楽譜を再び送り返しています。
山田耕作さんと手紙のやりとりをした話は、自伝の「鐘よ鳴り響け」で以下のように書かれています。
やがて先生は、「がんばりなさい」と添え書きした手紙とともに楽譜を再び送り返してくださった。その後数回手紙の往復があったかと思う。そのたびに書き添えてくださる言葉に、私は本当に励まされた。やがて、これらの手紙が、私の人生に大きな転換をもたらすことになるのであった。
よって、川俣銀行時代に山田耕作さんに曲を送っていた話は、実話です。
裕一が銀行で暇を持て余していた話と実話の比較まとめ
ここまで、エールの内容と実話を比較して説明しました。
裕一が銀行で暇を持て余していた話は実話でしたが、まさか山田耕作さんに曲を送っていたとはびっくりですよね。
今回のエールと実話の比較をまとめると、以下の通りです。
- 裕一が銀行で暇を持てあましていた話は、本当!忙しかったのは週に一回開かれる市の日だけ
- 暇なときは作曲をしていた話は、本当!帳簿の間に五線紙をはさんで作曲していた
- 山田耕作さんに曲を送っていた話は、本当!コツコツ作り溜めた曲の中から数点選んで、山田耕作さんの事務所に送っていた
エールと実話比較まとめ記事
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