エールでは、舘林会長が、家業を継ぐためにプロの音楽家を目指すことをやめる打ち明けました。
館林信雄が家業を継いで辞める話は、実話でしょうか?
結論からいうと、実兄が亡くなったことで家業を継ぐことになったのは実話です。
しかし、書籍の中では、館林信雄のモデルである橘登さんが家業そっちのけで、音楽活動をしていたという内容もあるんですよね、、、
こちらでは実話を詳しく解説していますが、エールと実話の結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第11話『自由な裕一に反発する弟浩二』のあらすじ
こちらは、エール第11話『自由な裕一に反発する弟浩二』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
大正15年、日本は第一次大戦後の不況と関東大震災の影響に苦しんでいました。
そんな苦境をどうにか抜け出そうとする空気の中、福島商業学校に進んだ裕一は、17歳になっていました。
学校が終われば、地元のハーモニカ倶楽部に足を運ぶ毎日。
ある日、裕一と史郎が、新しいレコードに興奮していると、裕一にハーモニカ倶楽部の館林館長が声をかけてきました。
舘林会長は、兄が重い病気にかかり、実家の料亭を継がなくてはいけなくなったことを打ち明けます。
「プロの音楽家になるって言ってたのに諦めんですか?」
同じ志を持つ館林に裕一は、戸惑いながらも質問します。
「君本気で言ってるの?」
「僕は東京の音楽学校に行った。そして知った。」
「すごいやつはうようよいる。」
裕一は、館林の言葉に耳を疑いました。
何でプロになるといったのかとさらに質問すると、「みんなを鼓舞するためだ。 夢がないと努力できないだろう。」と答えました。
裕一はそんな会長の言葉に、唖然としてしまいます。
尊敬していた会長の言葉だけに、深く心に突き刺さったようです。
エールと実話の比較
さて、舘林会長が、家業を継ぐためにプロの音楽家を目指すことをやめると打ち明けましたが、古関裕而さんの実話では、実際どうだったのか比較していきます。
実話の出所は、以下の書籍です。
館林信雄が家業を継いで辞める話は実話?
エールでは、館林信雄が家業を継いで辞める話を裕一に打ち明けましたが、家業を継いで辞める話は実話です。
館林信雄のモデルは、橘登さんです。
橘登さんは、「福島ハーモニカ・ソサエティー」の創始者で、裕一のモデルである古関裕而さんも大正12年から参加しています。
家業を継ぐ話は、数ある書籍の中で、唯一「古関裕而物語 昭和音楽史上に燦然と輝く作曲家」で詳しく書かれています。
登の引退理由は、家業の跡継ぎだった実兄の突然の逝去にあった。登は古関と夢を同じくし、東京において音楽の道に進む予定であったが、兄の死 というアクシデントから両親の希望によって家業にとどまり、音楽を断念せざるを得なかったのである。
よって、家業を継ぐために辞める話は、実話です。
館林信雄の実家が料亭という話は実話?
エールでは、館林信雄の実家は料亭と紹介されていましたが、これは実話ではありません。
橘登さんの実家は、蕎麦屋「広瀬庵」を営んでいました。
館林信雄の兄が重い病気にかかった話は実話?
エールでは、館林信雄が家業を継ぐ理由として、兄が重い病気にかかったと話していましたが、これは実話の可能性が高いです。
いくつかの古関裕而さんに関する書籍の中でも橘登さんは登場しますが、「蕎麦屋の長男」「蕎麦屋の次男」と異なって紹介されます。
その理由が、橘登さんの実兄が亡くなっており、跡継ぎという名目で長男と紹介されていたからです。
そのことも含めて書かれている書籍もあれば、単に「蕎麦屋の長男」で終わっている書籍もあります。
ちなみに、古関裕而さんの自伝では、「主宰者は商業学校の先輩で橘登氏。彼は広瀬尾というそば屋の二男だった」と紹介されています。
橘登さんの実兄が亡くなっていることは事実ですので、重い病気だった可能性は高いです。
それと、橘登さんには弟の正春がいて、二人ともハーモニカ吹奏で全国優勝の実力者です。
橘登さんの情報源
橘登さんに関する情報は、基本的に古関裕而さんがらみの書籍です。
橘登さん単独による書籍は見当たりませんでした。
そんな中、橘登さんの兄が急死して家業を継いだ話を詳しく書いてあるのは、調べた限りでは「古関裕而物語 昭和音楽史上に燦然と輝く作曲家」だけでした。
しかし、多くの書籍が参考にしたであろう「評伝古関裕而」では以下のように書かれており、実兄はかなり前に亡くなっていて、音楽活動をしていたことを匂わせています。
橘は福島市内の「広瀬庵」というそば屋の長男(実兄の逝去により長男)でありながら、稼業そっちのけで「福島ハーモニカ・ソサエティー」の活動に情熱を傾けていた。
ただし、「古関裕而物語 昭和音楽史上に燦然と輝く作曲家」では、引退理由を語った当時の新聞記事の内容を掲載しています。
これまでやって来て、今ステージを去るということは非常に残念です。
しかし家庭の事情が事情 ですから、引退を決意しました。
長いようで短かった過去十一年間を思い返しますと、実に感慨無量 です。
最初十六人の同志を集めて練習を始めてから、公演に次く公演、福島市民の熱烈な応援を受け て、明治神宮に於ける競演会までの進出、それから放送など、全く懐かしい思い出はつきません。
まだ公演などになれなかった当時なので、紋服姿で吹奏した、と言うような今にして思えばグロテスクなこともありました。
今後は家業の都合上演奏会などに出るわけには行きません。
当時の新聞画像は残念ながらありませんが、引退理由の家庭の事情が「兄の急死」なら、すぐにやめたことになります。
家業を継いだ話は実話ですが、時期については「稼業そっちのけで活動していた」話もあるので、兄が急死してからではない可能性はあります。
もっとも、橋登さんの引退披露演奏会が行われたのは、1932年(昭和7年)4月ですので、古関裕而さんが高校を卒業した後の話なので、エールとは時間軸が違います。
エールの館林信雄が家業を継いで辞める話と実話の比較まとめ
ここまで、エールの内容と実話を比較して説明しました。
館林信雄が家業を継いで辞める話は実話でしたが、時期が微妙ですね。
今回のエールと実話の比較をまとめると、以下の通りです。
- 館林信雄が家業を継いで辞める話は、本当!ただし辞める時期は兄の急死と違う可能性もあり
- 館林信雄の実家が料亭という話は、料亭ではなく蕎麦屋「広瀬庵」を営んでいた
- 館林信雄の兄が重い病気にかかった話は、実話の可能性が高い!橘登さんの実兄は亡くなっている
エールと実話比較まとめ記事
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