エールでは、裕一が留年して2度目の4年生を送っていました。
裕一が留年した話は実話でしょうか?
結論からいうと、古山裕一のモデルである古関裕而さんは、福島商業学校で4年生のときに留年しているので、事実です。
しかも、エールのワンシーンであった、あっちのタマが好きでした。
こちらでは実話を詳しく解説していますが、エールと実話の結果だけ知りたい方は、「まとめ▼」をご覧下さい。
エール第11話『自由な裕一に反発する弟浩二』のあらすじ
こちらは、エール第11話『自由な裕一に反発する弟浩二』のあらすじの一部です。
ネタバレを含みますので、まだ視聴していない方はご注意ください。
大正15年、日本は第一次大戦後の不況と関東大震災の影響に苦しんでいました。
そんな苦境をどうにか抜け出そうとする空気の中、福島商業学校に進んだ裕一は、17歳になっていました。
裕一は相変わらず音楽に夢中で、勉強そっちのけで、音楽三昧の生活を送っていましが、そのせいもあり留年してしまい、2度目の4年生を送っています。
そろばんの授業そっちのけで、作曲に夢中な裕一。
先生が裕一の横を通り過ぎようとすると「それはそろばんの玉がね?」と皮肉を言われる始末。
裕一は、先生に叱られ、廊下でバケツを2つ持って立たされてしまいます。
エールと実話の比較
さて、裕一が留年して2度目の4年生を送っていましたが、古関裕而さんの実話では、実際どうだったのか比較していきます。
実話の出所は、以下の書籍です。
クラスメイトの詩に作曲してあげた話は実話か?
エールでは、裕一が留年して2度目の4年生を送っていましたが、これは実話です。
古山裕一のモデルは、作曲家の古関裕而さんです。
古関裕而さんも、福島商業学校で4年生のときに留年しています。
福島商業学校は、中等程度の商業教育を施す、5年制の実業高校でした。
授業中も作曲をしていた話は実話か?
エールでは、裕一が授業中に作曲をしていたのがバレて廊下に立たされていましたが、授業中作曲をしていたのは実話です。
「ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好き」と 古関裕而さんの自伝「鐘よ鳴り響け」でも紹介されているほどです。
商業学校での私は、ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好きで、楽譜を買ってきては山田耕筰先生の曲に夢中になったり、また私自身の作曲に熱中していた。
「ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好き」という話は、古関裕而さんに関連する書籍にも多く紹介され、エールの中でもワンシーンとして採用されています。
「古関裕而の昭和史」では、同級生の言葉と問題児であった話が以下のように紹介されています。
「学校では私と古関は勉強しないし、あらっぱなことはするし、遅刻はするし、もてまされてましたね」と、同級生の羽田善一は振り返る。
授業中に作曲するのは当たり前。バレて怒られても、止まらなかった。勇治は、すっかり福商の問題児となった。
ちなみに、勇治というのは、古関裕而さんの本名です。
よって、裕一が、授業中作曲をしていた話は、実話です。
裕一が留年した話と実話の比較まとめ
ここまで、エールの内容と実話を比較して説明しました。
裕一が留年した話は実話でしたが、かなりの問題児だったようですね。
今回のエールと実話の比較をまとめると、以下の通りです。
- 裕一が留年した話は、本当!
- 裕一が留年した時期は、商業高校4年生のとき
- 授業中も作曲をしていた話は、本当!バレて怒られても、止まらなかった
- 古関裕而さんは、ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好き
エールと実話比較まとめ記事
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